歴史に学び発展を目指して

鶴岡生協の発足

1955年11月19日創立総会(組合員1,200人、出資金24万円)、12月4日から供給事業開始し、初日の供給7,094円。当時福対協(福祉対策協議会)の支援で多くの生協が発足したが、労働組合が組織加盟した形態で組織力の弱さが露呈し事業継続困難な生協が多発しました。鶴岡生協は組織に協力をお願いしながらも依存することはなく、地域住民一人一人に生協を説明し加入を勧めてきました。組合員拡大は鈍いながらも組合員としての意識を大切にし組織基盤をつくってきたことが困難を乗り越え発展してきた一つの要因といわれています。

庄内医療生協の発足

1964年新潟地震は鶴岡にも甚大な被害をもたらし、特に大山の生協店舗は半壊の被害をうけました。全国の生協組合員から義援金が85万円も寄せられました。救援に来られた医療生協職員の奮闘に感銘し、地域に医療生協設立の機運が生まれ、義援金のうち10万円を設立準備金にあてました。1964年12月6日創立総会(組合員529名、出資金68,700円)。翌1月4日人見協立診療所が発足しました。

連邦運営

鶴岡生協は山形県内生協の発展方向を目指し、連邦による県内単一の生協の統一を提起。各単位生協の組合員理事会の主体性を保障しながらも事業体として単一生協とする連邦制に踏み出して、自らの名称を共立社に変更しました。地域と文化を尊重し、組合員活動の自立性を保障するとともに、資本力の闘いに向かう流通情勢に対抗するために事業活動はマスメリットを追求する単一化という新たな試みをはじめました。

鶴岡での共闘活動の積み重ね

弱い立場の住民要求実現に向け、水道料金・新聞料金等の値上げ反対運動、学校給食への生牛乳切替要求から、全国課題の勤評や安保反対運動まで班会で話し合い運動に立ち上がってきました。組合員の闘いの中で政治革新の必要性が痛感され、市長選挙や県知事選挙はチャンスある度、生協・医療生協の組合員有志及び地域の民主団体との共闘が積み重ねられてきました。闘う組織を広げることの必要性は今なお求められています。

老人保健施設の建設

共立社90年代構想(1990年発表)で「協同組合運営による高齢者保健施設の建設」が課題に揚げられました。その実現は1995年老人保健施設建設に向け「虹の会」発足から始まります。医療生協・生協組合員に設立募金をお願いし、約8ヶ月間で4,700名の組合員の協力により募金1億円を突破することができ、老人保健施設「かけはし」(運営:社会福祉法人山形虹の会)が1996年4月に完成し入所開始しました。100床の老人保健施設が協同の財産として発足しました。

大山協同の家

大山地域は1963年鶴岡市に合併した町であり、新潟地震では甚大な被害を受けた地域(医療生協設立のきっかけ)です。震災直後に組合員から必要物資を聞き取り、醤油の無料配布や必需品の原価供給対応を行うことなどで、生協への理解が深まり、組合員組織率が最も高い地域となりました。医療生協は診療所を開設し、生協は店舗を移転拡大しました。その旧店舗を「大山協同の家」に発展させ、生協・医療生協の組合員で構成する「協同の家運営委員会」が「家」の活用から組合員活動まで自主的に運営しています。